「平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える-」の「第3章 日本の社会保障の仕組み(29~77ページ)」を読んでいたら「社会的包摂 ~新たな社会保障の方向性~」というコラムがあった。働く目的について頷けることが書いてあったので引用する。注目した所は赤い太字にしてある。
多くの人々は、家庭、地域社会、または企業が提供する労働市場のそれぞれ、もしくはいずれかに、自分の「居場所」と「役割」を見出すことで、社会生活に参加し、お互いの存在意義を認め合い尊重する中で、自立して生活している。
平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える- 第3章 日本の社会保障の仕組み(29~77ページ) コラム「社会的包摂 ~新たな社会保障の方向性~」
また、社会的包摂政策をいち早く打ち出した EU 諸国において、社会的包摂を促す政策の最大の柱は雇用政策である。なぜなら、EU 諸国では、現代社会において、個人が他者とつながり、自分の価値を発揮する最たる手段が就労だと理解されているからである。働くことというのは、単に賃金をもらうための手段というだけではない。働くことによって、人は社会から存在意義を認められ、「役割」が与えられる。働くことは、社会から「承認」されることなのである。だからこそ、人は「働く権利」があり、失業していることは、その機会を奪われることであり、失業そのもの自体が、たとえ生活に何の影響を及ばさなくても、社会問題であると認識されている。
平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える- 第3章 日本の社会保障の仕組み(29~77ページ) コラム「社会的包摂 ~新たな社会保障の方向性~」
だから、「十分なお金があっても、人は誰も働きたいんじゃないかな?」と思ってる。
働かないと、人は社会から「存在意義」を認められてないように感じられて、「役割」が与えられてないように感じられて、社会から「承認」されてないように感じてしまう。だから、みんな働きたいんじゃないかと思ってる。
もちろん、賃金を受け取らなくても、社会参加することで「役割」を与えられ、社会から「承認」されたように感じ、「存在意義」を認められたように感じることもできる。ボランティア活動が一例である。だから「働く」の定義を改めて、ボランティアや家事や癒やしなどで自分以外の誰かのために何かをしていれば「働いている」とみなして良いと思う。そんな広い定義で、みんな働きたいんじゃないかと思ってる。
例えば「国民に生活に必要な十分な金を支給したら誰も働かなくなる」なんてことは起こらないと思ってる。働かず、誰にも必要とされてない状態に耐えられる人は僅かだろう。
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