自分の仕事を「贈り物」と考えることについて

 2022/07/29にNHKラジオ第1で放送された「高橋源一郎の飛ぶ教室」の「ヒミツの本棚」のコーナーで高橋源一郎さんが興味深い本を紹介してくださった。

 松村圭一郎著「うしろめたさの人類学」からいろいろな個所を引用してくれて、どこも面白かったのだが、最後に引用した「いま私は、この大学で「教える」という仕事を、なるべく対価を得るための「労働」とは考えないようにしている」を受けて、源一郎さんは次のように仰った。太字の部分はたぶん引用して読んでいる箇所。

労働と考えると交換になるから。商品を売ってるでしょ。だから贈与です。贈り物だと思って。
もちろんよく分かってるんですよ。とはいえ、それが普通の授業とどう変わるかって言われてもね、たいして変わらないよね。気持ちだけだから。
おそらく学生に残るのは、教壇の前で誰かがなにかを伝えようとしていた、その「熱」だけだ。学生のなかで、その「熱」が次のどんなエネルギーに変わるのか、教員の側であらかじめ決めることはできない。
そもそも学生たちは、何者にでもなりうる可能性を秘めている。授業で語られる言葉、そこで喚起される「学び」は、相手の必要を満足させる「商品」ではない。どう受けとってもらえるかわからないまま、なににつながるかが未定のまま手渡される「贈り物」なのだ。
贈与だからこそ、そのための「労力」は、時間やお金に換算できないし、損得計算すべき対象でもない。

もし教育を市場交換される「労働」とみなせば、ここから大事ですね。その「成果」がきちんと計量できない以上、最低限の労力しかかけない、というのがつねに「正解」になってしまう
そりゃそうだよね。コスパがいいって。
それだと「教育」は、とたんにむなしい作業になる。
実際はほとんど届いていないかもしれないし、贈ったつもりのないものが届いているかもしれない。教員の側には、つねに「届きがたさ」だけが残る。教育とは、この届きがたさに向かって、なお贈り物を贈り続ける行為なのだと思う。
(中略)
その場所でその人がやれる贈り物っていうのは、いろいろあると思うんです。全く場所が変われば、贈られるものも違うし。贈られる人が得るものも違う。僕ね、これ読んでて「うん、そうだ!」と思ったのが、僕は作家で、小説を書いて職業にしています。小説は「商品」。
(中略)
でもね、商品と思って書いたことはないんだよね。
(中略)
先週も言ったんですけど、100年後の14歳に向かって書くってさ、100年先だからね。
僕も生きてないし。商品って自分のために売るでしょ。その時もう僕、死んでるからね。実は本って、みんなそういうもんなんです。だとすると、僕やっぱり書く時には誰かに贈るつもりで。

【飛ぶ教室】“うしろめたさ”の気づきから始まること|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじる

 私は「働かざる者食うべからず」という考え方が嫌いで、働いていようがいまいが誰でも生きていて良いと思っているし、生きるためには食べることが必要だと思ってる。でも、そもそも「働く」って何だろうかと考えた時に、生活費を稼ぐことだけを「働く」とみなさなくてもいいんじゃないかと思って、それならば「働く」の定義を考え直したら良いと思ってる。

 だから松村圭一郎さんが自分の「教える」という仕事を「贈り物」と考えたり、高橋源一郎さんが自分の小説を「誰かに贈るつもりで」書いているというのは私の考えにも近いものだと感じた。
 世の中には生活費を稼ぐために働いている人がほとんどで、もしもそれだけが目的なら受け取る対価に相応しい「最低限の労力しかかけない」のが正解だし、その結果として生まれた商品などの品質が低いままになってしまうデメリットもある。実際に、その程度の働き方しかしてない人は多いだろう。だから、生活費を稼ぐためではなく、自分以外の誰かのために何かをすること、自分以外の誰かのために「贈り物」をするつもりで働くのが良いのではないかと思っている。

 ただ、松村圭一郎さんも高橋源一郎さんも「じゃあ、対価は必要ないですね?」と言われたら「それは別問題」となるだろう。生活費が無いと生きていけない。その生活費を稼ぐために働いて対価を得ている。それが今の日本で、「うしろめたさの人類学」で紹介されたエチオピアの「貧しい人が『ちょうだい』って言ったら、ヒュッとあげちゃう」社会だったら対価は必要ないだろう。
 今の日本で「贈り物なので対価は必要ないです」なんて言ったら対価無しで働かせる搾取に繋がる。対価を求める人が働こうとしても「対価無しで働いてくれる人に頼みます」なんて言われて働かせてもらえない。
 だから「贈り物」と考えて働くことはできるが現実は労働の対価が必要である。働かなくても生きていられるような制度ができて働かなくても生活費に困らない社会になったのなら、自分の仕事を「贈り物」と心から思えるようになるのだろう。

 松村圭一郎さんは「構築人類学」を提唱したらしく、「うしろめたさの人類学」はその解説を兼ねた本だと思うのだが、Amazonのレビューを見たらマルセル・モースの「贈与論」も関係ありそう。

 ネットで検索したら2019/7/29に青山ブックセンター本店で雑誌『広告』の編集長小野直紀さんと松村圭一郎さんのトークがあったらしい。こちらも興味深い。

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