匿名でインターネット上にアップロードしてあった小説を縦書きにしてpdf形式に変えてアップロードしようと思って、その前に小説のルールに従って校正した。ルールをネットで検索して確認したら、おおむね間違ってはいないが、「…」を「……」と二つ続けたり、「?」や「!」の後は一文字開けるなど、直さなければいけない所もあった。
会話の「」では閉じかっこ(」)の前の句点(。)を省かなければいけないらしいが、省き忘れていた所もあったけれど、私もそのようなルールで書いていた。ただ、別の件で本棚から宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」を出して書き方を確認したら、次のように句点を省いていなかった。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
ルールに従うのなら、「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう」と書かなければいけないはず。句点を省くルールはネットに情報を載せている人たちの勘違いかもしれないと思ったのだが、とりあえず、昔の文豪は句点を省いていなかったらしい。芥川龍之介さんの「羅生門」も次のように句点を省いてなかった。
「おのれ、どこへ行く。」
ネット検索で正解を探してみたのだが、どうやらルールが変わったらしい。2007/11/28に書かれたと思われる次のように書いてあるサイトがあった。加藤汐朗さんの意見で「60年ほど前から」と書いてあるので、1950年くらいから出版業界の都合で句点を省略することが求められるようになったらしい。
●答え●
閉じ括弧の前に句点を入れる? 小説作法
かつては、閉じ括弧の前に句点を置くのが正しいとされていました。国が定めた基準では、いくつかの例外を除いて句点を打つことになっています。そのため、公用文や教科書では基本的に「~。」と打つことになっています。
しかし、現在(2012年)では、カッコのウケ(」)が文末を示すことは明白なので、句点を省略するのが書籍や雑誌等での表記ルールです。
(中略)
(夏目漱石や芥川龍之介などの古い文学作品では、新ルールではなく、古くからの基準で書かれているため閉じ括弧の前に句点があります)
(中略)
現在の出版界では、閉じ括弧の前の句点を省略するのが当たり前になっているので、当サイトでは、作家を目指す人向けに、こちらを正しい文章作法として紹介しています。
加藤 汐朗さんからの意見
閉じ括弧の前に句点を入れる? 小説作法
括弧内の文末に句点を入れるのは、昭和21年に文部省が作成した文書表記法に関する統一冊子が標準になっているからです。このため、現在でも公文書や教育機関の文書表記はこれに倣って作成されています。
では何故、一般に普及している新聞や書籍に句点が無いのかと言いますと、閉じ括弧そのものが文末を表すという理由から、60年ほど前から新聞や出版業界で句点を省略する動きが出始め、著作者に対し句点の省略を打診するようになりました。これが現代に至り、省略するものとして定着したようです。
結論。
「小説として出版社に投稿するなら、句点は省略して付けない」
「でも頭の片隅には、正しい日本語表記は句点を付けるものと覚えておくといいです。」●補足
閉じ括弧の前に句点を入れる? 小説作法
主題の件に関しましては、実は私自身<国立国語研究所>に問い合わせをした事があります。不適切な場所への引用を避けるため、メールや文書ではなく電話で応対するスタイルでしたが、充分納得できるお返事を頂きました。
対応して下さった職員の方曰く。最近の小説は会話文が多くなり、規定の表記法で句点を用いた文章を書いてしまうと、テンポが悪くなる上、ダイナミックに表現する事が困難になる。親しい友人や恋人に手紙を書く際にも、堅苦しい表記法を用いれば思いを伝えにくくなるし、表記法の押し付けになりかねず失礼に当たる。句点に囚われず、表現しやすい文章を心掛けて欲しい。
つまり、文学という観点から『表記法のルールとしてこう在るべき』という考え方を持つべきではない。との見解を示して頂きました。
反面、ビジネス文書や論文、レポート等、特に表記法に関する指導要綱が提示されていない場合には、規定の作法で文章を書かなければならない場面が実生活には存在している事、それは忘れないで欲しいと付け加えておられました。
以下は、その他の参考リンク。
ちなみに、「銀河鉄道の夜」で私が確認したかった表記は、心の中で思っていることをどのように書いているか。()を使うのが最近の流れみたいで、批判している人もいるのだけど、宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」では、次のように()が使われていた。
(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。)
とジョバンニが思いながら、
ジョバンニは、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもいながら、
ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、大へん気の毒だ。)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。)ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまいました。
(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向うにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押えるようにしてそっちの方を見ました。(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。
(こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり談しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして向うの窓のそとを見つめていました。
ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました。
以上、宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」から引用したのだけど、最後の一つは()が使われてないが「お父さんの帰ることを知らせよう」と思ったらしい。私の昔の小説も、そのように()を使わない表記に修正できたので、古いルールを使っている宮沢賢治さんの真似をするのはやめて、()は使わなかった。新しいルールでも()を使って良いみたいだが、著名な重鎮の作品で()を使っているのを見たら、私も()を使おうと思う。
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