日本国憲法第26条(教育を受ける権利および義務教育)について最高裁の解釈

 私は「教わりたい」という意欲が無ければ教わったことが身に付きにくく、教わったことを忘れたり教わったことを役立てられなかったりすると思っているので、学校は生徒が「教わりたい」と思ったことを教えてもらえる場所になったら良いと思っている。大学は必須科目があるので完全ではないが学生が「教わりたい」と思ったことを選んで学べる場になっている。高校も入学する高校を選べたり一部の高校では授業を選択できるようなので少しは「教わりたい」と思ったことを選んで学べる仕組みにしやすいのかもしれない。問題は中学校や小学校の義務教育である。生徒には「教わりたい」と思うことはあるだろうが、偏ってしまって必要な知識が身に付かなかったり、そもそも選択肢が乏しい。スイーツで例えると、かき氷とアイスクリームとソフトクリームがあるのにソフトクリームの存在を知らず、かき氷とアイスクリームからしか選べない状態である。少なくともソフトクリームがあることくらいは教えた方が良いように思う。ただ、ソフトクリームなんか知らなくても良いと思っていたらソフトクリームの存在は教えないだろう。ソフトクリームの存在を教えたい人は教えようとするだろうが、それは教わる側の「教わりたい」という希望によるものではなく、教える側の「教えたい」という希望によるものである。ソフトクリームが存在することだけを教えるのなら、ソフトクリームがどんなものでどんな種類があるかなどソフトクリームの詳細については「教わりたい」と思った人が教われば良いので、「教わりたい」と思ってない人にまで詳細を教えなければ、教える側の「教えたい」欲求の押し付けにはならないかもしれない。その加減が難しい。

 毎年8月になると戦争特番がたくさん報道されるのだけど、最近では太平洋戦争の記憶をどのように継承するかが問題になっている。ここでも「教わりたい」と思っていない人に教えるのは難しい。例えば、被爆して真っ黒になった人の絵を見せてもピンとこない人もいる。修学旅行で被爆者が語っているのを聞いても全く耳に入ってない生徒もいる。東京大空襲や沖縄戦のことを知らない人もいるだろう。今後の日本が戦争を起こさないように、参戦しないように戦時中に起こったことを教えたい人はたくさんいるのだけど、たぶん「教わりたい」と思っている人は少なくて、ましてや小学校や中学校の生徒で「教わりたい」と思っているのは僅かだろう。そんな状況で生徒が「教わりたい」と思っていることだけを教えれば良いとも思えない。

 他にも様々なマイノリティのことだったり、性教育だったり、人権のことだったり、「教えたい」と思っていることはたくさんあって、それを生徒が「教わりたい」と思わなければ教えないのは嫌である。だから、学校は生徒が「教わりたい」と思ったことを教えてもらえる場所になったら良いと思っているのに、私が「教えたい」と思っていることを教われる場でもあってほしくて、自分の中で矛盾している。
 そんなもやもやしている時に、最高裁が教育について語っている判例があったことを思い出したので、引用しておく。

事件番号 昭和43(あ)1614
事件名 建造物侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反
裁判年月日 昭和51年5月21日
法廷名最高裁判所大法廷
裁判種別判決
結果その他
判例集等巻・号・頁刑集 第30巻5号615頁
原審裁判所名札幌高等裁判所
原審事件番号
原審裁判年月日昭和43年6月26日
判示事項一、地方教育行政の組織及び運営に関する法律五四条二項と昭和三六年度全国中学校一せい学力調査の手続上の適法性
二、憲法と子どもに対する教育内容の決定権能の帰属
三、教育行政機関の法令に基づく教育の内容及び方法の規制と教育基本法一〇条
四、昭和三六年当時の中学校学習指導要領(昭和三三年文部省告示第八一号)の効力
五、昭和三六年度全国中学校一せい学力調査と教育基本法一〇条
六、教育の地方自治と昭和三六年度全国中学校一せい学力調査の適法性
裁判要旨一、地方教育行政の組織及び運営に関する法律五四条二項は、文部大臣に対し、昭和三六年度全国中学生一せい学力調査のような調査の実施を教育委員会に要求する権限を与えるものではないが、右規定を根拠とする文部大臣の右学力調査の実施の要求に応じて教育委員会がした実施行為は、そのために手続上違法となるものではない。
二、憲法上、親は一定範囲においてその子女の教育の自由をもち、また、私学教育の自由及び教師の教授の自由も限られた範囲において認められるが、それ以外の領域においては、国は、子ども自身の利益の擁護のため、又は子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、子どもの教育内容を決定する権能を有する。
三、教育行政機関が法令に基づき教育の内容及び方法に関して許容される目的のために必要かつ合理的と認められる規制を施すことは、必ずしも教育基本法一〇条の禁止するところではない。
四、昭和三六年当時の中学校学習指導要領(昭和三三年文部省告示第八一号)は、全体としてみた場合、中学校における教育課程に関し、教育の機会均等の確保及び全国的な一定水準の維持の目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的な遵守基準を設定したものとして、有効である。
五、昭和三六年度全国中学校一せい学力調査は、教育基本法一〇条一項にいう教育に対する「不当な支配」として同条に違反するものではない。
六、文部大臣が地方教育行政の組織及び運営に関する法律五四条二項の規定を根拠として教育委員会に対してした昭和三六年度全国中学校一せい学力調査の実施の要求は、教育の地方自治の原則に違反するが、右要求に応じてした教育委員会の調査実施行為自体は、そのために右原則に違反して違法となるものではない。
参照法条地方教育行政の組織及び運営に関する法律23条,地方教育行政の組織及び運営に関する法律32条,地方教育行政の組織及び運営に関する法律43条,地方教育行政の組織及び運営に関する法律54条2項,刑法95条1項,憲法13条,憲法23条,憲法26条,憲法92条,教育基本法 前文,教育基本法10条,学校教育法38条,学校教育法106条,学校教育法施行規則54条の2
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2 憲法と子どもに対する教育権能
(一) 憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法二六条であるが、同条は、一項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、二項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めている。この規定は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。
 しかしながら、このように、子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続によつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。
(二) 次に、学問の自由を保障した憲法二三条により、学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるとする見解も、採用することができない。確かに、憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。しかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。もとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである。
(三) 思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によつて大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。それ故、子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる。子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであつて、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的に示していないことは、上に述べたとおりである。そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張のよつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである。
 そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。

事件番号「昭和43(あ)1614」昭和51年5月21日 最高裁判所大法廷判決

 「みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有する」と書いてあるように、義務教育は「子どもの学習をする権利」を充足するために存在するわけである。だから、生徒が「教わりたい」と思ったことを教えれば良いと思うのだけど、生徒が「教わりたい」と思ってないことでも「将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすもの」だから教えなければいけない。問題は生徒が「教わりたい」と思ってないことを教えても身に付きにくいことである。さらに「全国的に一定の水準を確保すべき」なんて要請があるから生徒が「教わりたい」と思ってないことでも無理やり教えることになって、生徒は嫌がる。そんな状態での教育が有効なのか、はなはだ疑問である。でも…、生徒が「教わりたい」と思わなくても教わって覚えていて将来に役立ててほしいことがあるから、気持ちがもやもやしてる。

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