1 僕達の一夜 2 まったく最低な一夜だった。あんなに後悔したことはないし、これからもないだろう。人生をもう一度やり直せて戻る日時を自由に選べるのなら、僕は迷うことなく、あの日のあの夜を選ぶだろう。それほど最低な一夜だったはずなのに、思い出すたびにほろ苦さと甘酸っぱさが甦り、胸がしめつけられ、決して失いたくない大切な思い出として取って置きたくなる。たぶん、あの夜ほど楽しい時は二度と来ないからだろう。 3 「よう、光輝。待ったか?」 聖が後ろから僕の肩を叩いた。 「徹と明はまだか?」 「ああ、まだみたいだ。明が彼女連れてくるんだって?」 「ああ、彼女の友達も来るらしいぞ。おっ、来た来た。おおい!」 スーパーに出入りする買い物客の隙間から徹の大きな身体が見えた。明も一緒のようだ。明の横にはアイドルタレントのような美人が歩いていた。明の彼女のようだ。明に写真を見せてもらったことがあるが、実物は写真以上だった。彼女と徹の 4 間にも女の子がいた。明の彼女ほどではないが、チャーミングで笑顔が可愛い。楽しい日になりそうだった。 最近の僕は何をやってもうまく行かず、特に就職試験で落ちまくっていたので、その日の天気のように晴れそうで晴れない、すっきりしない気分が続いていた。そんな僕を元気付けようと思ったのか、ただ単に自分が遊びたかったからなのか、聖が今日の「遊びまくりデイ」を企画したのだ。二人が教室でその話をしている時に、近くにいた徹と明が聞きつけて賛同した。学校からの帰り道で明が彼女に「遊びまくりデイ」の話をすると、 5 「えっ、いいな。私も遊びたい。友達も連れてくるから」 と言って、明の彼女も参加することになり、今日のメンバーが決まった。 「よう!」 「よう!」 「どこ行く?」 「どこ行こっか?」 「おっと。その前に紹介しろよ」 聖に促されて明が自分の右にいる女の子を紹介した。 6 「こいつが俺の彼女。一子」 「一子です」 透き通るような声で明の彼女が挨拶し、続けて自分の右にいる女の子を紹介した。 「こちらが、美智代。私の友達です」 「みっちょんです。いっちゃんの友達です」 少し甘ったれたような声が、顔に似合っていて、彼女の魅力を増していた。 「さっ、行こっか!」 「行こうかって、どこへよ?」 7 「どこ行こう?」 「腹減ったな」 「そうだな。何か食うか?」 「そうだな。食いに行こう」 「あっ!」 突然、みっちょんが何かに気付いたように叫んだ。 「どうした? みっちょん」 「あの人がァ、こっちをォ、見てるよォ」 8 「どの人?」 「あの人」 みっちょんが指さした方を見ると、スーパーの前のベンチに腰掛けて弁当を食べている三十歳前後の男性がいた。彼の横にはたくさんの荷物を積んだ自転車が置かれていて、浮浪者のように見えた。 「みっちょん。指ささない方がいいよ」 「どうして? いっちゃん。……? 『何か用ですかァ?』って聞いてこよっかァ?」 みっちょんがその男性の方に歩き出したのを徹が止めた。 9 「やめろって!」 「どうしてェ?」 「関わり合わない方がいいって!」 僕達はいっせいにその男性の方を見た。 「とりあえず、行こっか」 僕達はその男性に背を向けて歩き出した。オレンジ色の光が目に入り見上げると、食べかけの綿菓子を並べたような雲が夕日に照らされて美しく色付いていた。 10 「ここ、ここ」 「おっ、誰もいないじゃん!」 「だろう! ここなら大丈夫だって」 「どこで飲むか?」 「あそこがいいよ」 僕は暗闇の中にそこだけ特に明るく浮き出ている木造の建物を指した。 「管理事務所だけど、今は誰もいないはずだから」 僕達は管理事務所の広い軒下にビニールシートを広げ、大きなスポーツバッグと 11 ポテトチップスの入ったコンビニの袋を置いた。聖がバッグを開け、中から缶ビールを取り出すと、徹と明が皆の前に次々に置いた。静かな公園にコンクリートとアルミ缶のぶつかる音が響いた。 12 「ビールが飲みたいな」 スーパーの前に集合してから、あっという間に時が過ぎていた。町の中心を流れる広い川の岸辺に降りて、次に行く場所を決めている時に、ふと、いっちゃんが言った。 「ビールが飲みたいな」 「いいね。飲もう」 聖がすぐに賛成した。 「みっちょんも飲みたーい」 13 「飲もうぜ」 みっちょんも徹も賛成した。 「飲もうって、どこでさ?」 明が心配そうに尋ねた。 「徹の部屋は?」 「6人も入れないって」 「それもそうだな。俺の部屋もそうだわ」 「どこにするか……?」 14 「城山公園はどう?」 僕は皆に提案してみた。城山公園は城跡を公園にした場所で、小高い丘の上にある。市街地の中にあるのに、昼間も人けが少なく、近所の子連れの母親が時々散歩に来る程度である。僕は何度かこの公園に来たことがあって、夜には全くと言って良いほど人けが無いことを知っていた。 「そこにしよう」 聖が即座に賛成した。 「誰かに見つかったらどうするんだよ?」 15 「大丈夫! 誰もいないから」 聖も何度か来たことがあった。 「じゃあ、そこにしよう」 「じゃあ、バッグを取ってくるから、待ってて」 聖が帰ってくるのを待って、僕達はコンビニに向かった。 16 「さっ、飲もう、飲もう」 「飲もう、飲もう」 缶ビールから炭酸ガスの抜ける音が次々に続いた。 「あそこは何?」 いっちゃんが管理事務所のすぐ隣にある木造の建物を指した。 「何だと思う?」 聖がいたずらっぽく聞き返した。 「入れるの?」 17 「入れるよ。肝試しだ。行ってくれば?」 いっちゃんが立ちあがった。 「どこから入るの?」 「そのテントの後ろに入口があるよ」 いっちゃんは入口の木戸を少し開けた途端、 「きゃー!」 と言って戻ってきた。 「何? 何?」 18 今度はみっちょんが一緒に行った。 「きゃー」 「きゃー」 そろって戻ってくる。 「開いたよォ。中、まっ暗」 「トイレだよ。そこは女子用」 僕は彼女達に説明した。 「そっちが男子トイレ。真ん中のは身体障害者用。ベビーベッドも置いてあるから、 19 子連れの人も利用できるんだ」 「鹿島君、詳しいね」 「光輝の家、この下だから」 「この下?」 「ああ、ここから見えるよ」 「へえ、近いんだ」 聖が、見てみるよう薦めたが、彼女達は大して興味がないらしく、そのままビールを飲んでいた。 20 「俺、トイレに行こう」 徹が立ち上がった。 「俺もトイレ」 「俺も」 「俺も」 「私もトイレ。いっちゃん一緒に行こう」 結局、皆トイレに入った。 「暗ーい!」 21 女子トイレから声がする。 「電気のスイッチがあるだろう?」 聖が男子トイレから応える。 「えっ! どこー?」 「こっちにはあるぞー」 トイレから出てきて飲み直すと、みっちょんが男子達に質問を始めた。 「部活、何やってるの?」 集合してから五時間以上経っているのに、そんな自己紹介さえしてなかった。そ 22 れだけ遊びに夢中だったのだろう。 「へー、サーフィンやってるんだァ」 その間も缶ビールの栓は次から次へと開けられていた。 「これで最後だぞ」 「えっ! もう?」 「これならあるけれど」 聖がバッグから芋焼酎を取り出した。 「お前、そんなのも持ってきてたんだ?」 23 聖が徹のカップに焼酎を注ぐと、徹が少し口に含んだ。 「芋くせえ!」 「どれどれ?」 明も自分のカップに焼酎を入れて飲んでみた。 「芋くせえ!」 「ビールは無いのかよ?」 「これで最後だって言っただろ!」 聖はみっちょんのカップにも焼酎を入れた。 24 「おいしいよォ」 みっちょんは気にいったようだ。 「私はビールがいい」 聖がいっちゃんのカップにも焼酎を入れようとしたら、彼女はカップを手元に寄せて断った。 「お前がいちばん飲みたがってたじゃん」 「ビールだよー」 「おいしいよォ」 25 みっちょんは平気で飲んでいる。 「ビールで割ってみよう」 「俺も」 皆、焼酎をビールで割って飲み始めた。 「いっちゃん、就職決まった?」 「うん」 「どこよ?」 「スーパー」 26 「どこの?」 「中央通りの……」 「ああ。いいじゃん」 「みっちょんは?」 「いろいろ受けたけどォ……」 「どこ受けた?」 「弁当屋さんとかァ……」 「そう言う、聖はどうよ?」 27 「まだ、決まってないわ。徹は?」 「俺もまだ」 「決まっているのは明といっちゃんぐらいだな」 「徹、一気しろよ」 明が暗い話を遮るように言った。 「ちょっと、待った!」 飲み始めようとする徹を制止して、聖が言った。 「あれ、行こう。あれ」 28 「おお、徹、準備はいいか?」 「せーの! 徹の一気が見てみたい!」 始まりの合図で徹が飲み始める。 「はい、はい、はい、はい。『ごちそうさま』が聞こえない」 一気に飲み終えた徹のカップに再び焼酎が入れられる。 「はい、はい、はい、はい。はい、はい、はい、はい」 徹は二杯目も一気に飲み干し、喚声が上がった。 「せーの! 聖の一気が見てみたい」 29 今度は聖のカップに焼酎が入れられた。 「はい、はい、はい、はい。『ごちそうさま』が聞こえない」 お決まりのパターンのようで、二杯目が入れられる。 「はい、はい、はい、はい。はい、はい、はい、はい」 聖も一気に飲み干した。 「これ、きついな……。よし、次、明」 「せーの、明の一気が見てみたい。はい、はい、はい、はい。『ごちそうさま』が聞こえない。……」 30 明も一気に二杯を飲み干した。 「鹿島の一気が見てみたいな」 明が言った。 ついに来た。一気飲みが始まった時から「僕に振るなよ」と心の中でずっと唱えていた。一杯だって一気なんかできるわけなかった。 「俺も見てみたいな」 徹が同調し、僕のカップに焼酎を入れようとした。 「飲めないって」 31 「大丈夫だって。少な目にしておくから」 容赦なく、僕のカップに焼酎が入れられた。 「せーの、鹿島の一気が見てみたい。はい、はい、はい、はい、……」 しかたなく僕は飲み始めるが、すぐに口からカップを離した。しかし、皆のかけ声は止まらない。 「はい、はい、はい、はい、……」 もう一度飲み始めたが、結局少し残してカップを置いた。さすがに、二杯目は入れられなかった。 32 「次、いっちゃんね」 「私は、ビールがいいの!」 「まあまあ、まあまあ。」 カップに焼酎が入れられ、いっちゃんも観念したようだ。 「せーの、一子の一気が見てみたい。……」 続いて、みっちょんも一気飲みをして、二人とも急激に酔いが回ったようだった。 「ねむーい」 「だめだよォ、いっちゃん。明日出かけるって言ってたじゃない」 33 「ねむーい」 「だめだよォ」 最後のビールがなくなり、ポテトチップスと芋焼酎だけになった。 「買い出ししてこようぜ」 「雨の中?」 僕達が飲み始めた頃に降り始めた雨は、しだいに強くなっていた。 「俺、いいよ。もう、酔ってきた」 「何だよ、明。俺はまだ全然だぜ」 34 確かに、聖は全然酔った様子がなかった。 「いつも、俺ばっかり酔わねーで騒いでるのな」 「こうすると酔うぜ」 徹が聖の頭を持ってぐるぐるまわし始めた。 「利くー!」 「利くだろう?」 「買い出し、誰が行く?」 「じゃんけんで決めようぜ」 35 「残った二人が買い出しな」 「せーの、最初はグー。じゃんけんぽん」 「あいこでしょ」 「あいこで……」 なかなか決まらない。 「最初はグー。じゃんけんぽん」 「あいこで……」 「あれ? 今決まったんじゃない?」 36 「あいこだろう?」 「誰か、グーいたか?」 「俺、グー」 「なァんだァ」 「最初はグー。じゃんけんぽん」 何度か繰り返すうちに、僕と明と聖が残った。 「それ、最初は……」 「ちょっと待った」 37 「何だ? 聖」 「この中の二人だろう?」 「あたりまえじゃん」 「緊張するなぁ」 「いくぞ! じゃんけん……」 「私、買い出しに行きたい!」 突然、いっちゃんが言い出した。 「雨降ってるぜ?」 38 「でも、行きたい!」 「じゃ、俺行ってくるわ」 結局、明が買い出しに行くことになった。 「何がいい?」 皆が好き勝手言い出して注文はバラバラだった。ひとりで何種類も注文したり、注文がころころ変わったり、とても覚えきれるものではなかった。それでも明はメモを取らず、 「OK! OK! じゃ、行ってくるわ」 39 と行って、立ち去った。 40 ポテトチップスをつまみに焼酎をストレートで飲みながら聖と徹が話をしている時に、眠っていたみっちょんが目を覚まして騒ぎ出した。 「いっちゃんがいなーい! いっちゃん、どこー?」 みっちょんが言った通り、いっちゃんの姿はなかった。どうやら、明に付いて行ったらしい。 「トイレに行きたーい!」 「行ってくればいいじゃんか」 「ひとりじゃやだー! いっちゃん、どこー!」 41 そう言えば、みっちょんがトイレに立つ時は、いつもいっちゃんが一緒だった。 「トイレに行ってくるー」 「徹、付いて行ってやれ!」 聖に言われて、ひとりで先にトイレに入ったみっちょんの後を徹が追いかけた。しばらくして二人が帰ってくると、 「いっちゃん、探して来るー!」 と言って、みっちょんが立ち去った。徹もその後を追いかけて行った。 42 「俺、徹の彼女みたいな子、いいな」 二人残され、静かになった公園で、僕は聖に告白した。 「天然ぼけと言うか、ああいう所がいいな」 「みっちょんのことか?」 「ああ。ああいう子、いいな」 「だめだって。俺達、仲間だろう?」 「彼女、欲しいな」 「女はだめだって」 43 「どうして?」 「女は場を乱すだろう?」 聖は友情を何よりも大切にする男で、そのせいか、僕達の他にも仲間がたくさんいた。そんな聖が僕を大切にしてくれるのはとても嬉しかった。聖が僕をどう思っているかは分からなかったが、僕は聖を一生の親友だと思っている。 「徹だって、あんな風になっちゃって」 「……」 「明だってそうさ」 44 「明はいいよな……。かっこいいし、もてるし……」 「俺、お前もかっこいいと思うよ」 「……」 「ほんと、光輝はかっこいいって!」 「……」 「電話してみっか」 そう言って、聖は携帯電話を取り出し、他の仲間に電話を始めた。 「……。おうよ。今? 今、城山。……。徹達と飲んでたんだけど、皆、帰っちゃ 45 って、今二人よ。……。来れっか? ……。そうか。……。おう、じゃあな」 電話を切ると、 「今頃、起きてる女は、誰がいるかなぁ?」 と言って、知っている女の子に電話を始めた。聖がひとりで楽しそうに話している間、僕は黙って残りの焼酎を飲んでいた。 「竜二に電話してみっか」 竜二は僕も知っていた。 「次、電話変わって?」 46 聖が話し終えてから電話を変わってもらって竜二とたわいない話をした。その時、徹とみっちょんが帰ってきた。 「いっちゃん、いなかったァ」 気のせいか、立ち去る前より元気に見えた。正気に戻っているように見えた。 「ねえ、二人で何を話してたの?」 「ビールを買って来よう」 質問には答えず、聖が徹を誘った。 「えっ? もういいよ」 47 「いいから、いいから。さっ、買いに行こう」 聖は座ったばかりの徹の手を引き、強引に立たせた。 「じゃあ、私、カシスオレンジ」 「OK、OK! さっ、行こう」 「俺、トイレ」 徹がトイレに行くと聖が付いて行き、一緒に出てくると、 「じゃ、行ってくる」 と言って、二人は買い出しに行った。 48 「鹿島君、部活、何やってるの?」 「何も」 「そうか……、何もやってないんだ」 「……」 「鹿島君、彼女いるの?」 「いないよ」 「えっ、でも、圭子と付きあってるって……」 「圭子とは別れた」 49 「別れた?」 「ああ」 「どうして?」 「圭子が他の男の飲み会に行って、切れた」 「そうか……。そういうの、許せないよね……」 「鹿島君、優子、知ってる?」 「知ってるよ」 「どう思う?」 50 「いい子だと思うよ」 「私、優子、嫌い」 「……」 「鹿島君、どんな子が好みなの?」 「……」 「いっちゃん、かわいいよね?」 「そうだね」 「いっちゃんみたいな子、いいよね?」 51 「……」 「いっちゃん、かわいいよね。いっちゃん、かわいい。いっちゃん……」 「……」 「おおい!」 明の声がした。 「まだ、いたんだ?」 明がいっちゃんと一緒に戻ってきた。 「よお!」 52 聖と徹も戻って来た。 「帰ったかと思ったぜ」 「橋の上まで行ったんだけどさ……」 「何か買ってきたァ?」 僕と話していた時には見られなかった明るさがみっちょんに戻った。 「えー! 何も買ってきてないのォ? 最低!」 「今、何時?」 「もうすぐ五時」 53 「管理人さん、いつ来るの?」 「六時半頃じゃないかな」 「帰ろうぜ」 「そうするか」 「みっちょんはァ?」 みっちょんが皆に尋ねた。みっちょんの家は、歩いて帰るにはあまりにも遠かったので、置いて行かれると思ったらしい。 「みっちょん、帰れない」 54 「ここで寝れば?」 「やァだァ! こんな所で、蛾がたくさんいる所で寝たくなァい!」 「……」 「あそこで寝るゥ」 そう言ってみっちょんはトイレの前に張ってあったテントの方に歩き出した。 「やめろって!」 聖が慌てて止めに行き、みっちょんを引き戻した。それでも、みっちょんは何度もテントの方に向かって、その度に聖と徹が止めに行った。 55 「あそこで寝たァい!」 愚図るみっちょんを落ち着かせてから、聖は飲み散らかしたビールの空き缶を広い集めて煙草の吸い殻やポテトチップスの粕も集め始めた。 「おおい! この煙草、誰のだ?」 「おお、俺のだ」 「忘れるなよ。……。おい、光輝、どうした?」 「吐いた?」 「どこよ?」 56 「ここ」 「せっかく片付けたのに、汚すなよ」 「悪い」 そう言って僕はトイレにかけ込んだ。つられるように徹もトイレにかけ込んで、聖と明が心配そうに付いて行った。 「ねえ、いっちゃん。帰った方がいいかな?」 突然、みっちょんがしんみりといっちゃんに尋ねた。 「えっ?」 57 「お父さん、六時半頃に帰ってくるの。それまでに帰った方がいいかな?」 「どうして?」 「だって、また遊んでると思われるもの」 「……」 「お父さん、私のこと『公衆便所だ』って言うの」 「……」 「そんな風に思われてるの、嫌じゃない?」 「……」 58 男達がトイレから出てきて、皆、帰ろうとした。 「みっちょんはァ?」 みっちょんが慌てて皆の顔を見ながら尋ねた。 「いっちゃんは、柔らかい布団で寝るの?」 「うん」 「いっちゃんの家、どこだっけ?」 「……」 「いっちゃんの家もちょっと遠いよね?」 59 「……」 みっちょんは何かに気付いたらしく、静かになった。 僕は、また気持ち悪くなってトイレにかけ込んだ。 「先に帰るわ。光輝、頼むな」 そう言って、徹はひとりで帰った。 明も歩き出し、いっちゃんが付いて行った。そして、みっちょんも二人の後を付いて行った。聖も帰ろうとしたのだが、引き返してトイレに入った。 「おーい! 光輝。帰るぞ!」 60 「……」 「開けろってば!」 「……」 「おーい! 早くしろよ!」 「……」 「おーい! 光輝」 僕は便器に向かって、何かを吐き出そうとしていた。でも、口からは何も出てこなかった。その代わりに目からしょっぱいものが流れ、鼻を伝って便器に落ちてい 61 た。そんな姿を誰にも見られたくなくて、トイレの個室に鍵をかけて篭っていた。 「おい、光輝。大丈夫か?」 ようやく落ち着いてトイレの扉を開けると、聖が心配そうに僕を見ていた。 「顔洗えよ。すっきりするから」 「うん」 「水も飲めよ。楽になるから」 「うん」 聖の肩を借りてトイレの外に出て、聖と一緒に僕の家に向かった。 62 外は少し明るくなっていて、五時を知らせる鐘の音が聞こえた。 63 こうしてその一夜は明けた。その日が日曜日で良かった。家に着いてベッドに横になると、無重力の宇宙で身体がくるくると回っているように気持ち悪く、象がダンスしているかのように頭の中が響いた。気が付いたらお昼を過ぎていて、ダイニングルームのテーブルには冷めた昼食が置いてあった。次の日の月曜日にはいつものように登校して、いつものように授業を受け、いつものように友達とおしゃべりをして過ごした。でも、何かが違っているように感じた。目に入る全ての物がいつもよりも輝いているように思えた。 一九九九年六月十三日